教育でないものが、教育を変える!

 東京サドベリースクールに我が子が2年間在籍し、現在はおはなしワクチンの活動をされている蓑田さんの投稿を読みました。サドベリー教育には、ずっと前から関心を持ってみてきました。オルタナティブ教育のひとつであり、A.S.ニイルの自治共同体の実践からも確かに影響を受けているサドベリバレースクールですが、サマーヒルとも明らかに違う。また他のオルタナティブ教育とも、一線を画しているように思えます。
 その違いは何なのか?本当にサドベリーのような教育はありなのか?「サドベリーは、教育じゃない」という蓑田さんのサドベリー観を読み、ストンと腑に落ちたのでコラムに書かせていただくことにしました。
 私の捉えでは、サドベリーやデモクラティックスクールの教育の根幹は「民主主義を体験を通して学ぶ」ということだと思っています。もっと言えば、学ぶというよりは「民主主義を生きる、隅から隅まで民主主義に徹した生活に浸る」コミュニティなのかなぁという感覚です。すべての行動は、自己決定され、そこには自己責任が伴う、また自他ともの自由を尊重するというただひとつの原則に貫かれたコミュニティなのかなと思います。なので一日中ゲームをして過ごすことも自由、なにもしないもの自由。果たしてそれで社会的な自立が可能なのか?という疑問を抱くのも、大人として当たり前の感覚でしょう。


 しかし蓑田さんの問いかけは、大人達が抱くサドベリー教育への素朴な感覚に、疑問を投げかけます。
 〇前身、〇進歩、〇向上、高学歴、高所得etc
 これらの価値観は、先進国の大人の多くが正しいと信じて疑わない価値観ですが、SDGsが尊重されるこれからの時代
・教育のあり方は、こうした価値観のうえに立脚してシステム化されてよいのだろうか?
・こうした価値観に基づいて教育されてきたことによって、失われてきた大切なものがあるのではないか?
「サドベリーは、教育ではない」という捉え方は、学校教育の根底にある価値観を問い返します。

 これからの学校に必要なものは何かと考えたときに、「それは教育でないもの」と言えるかも知れません。注入注入の毎日に飽き飽きしている子どもたちが「学校に求めているもの」それは教育ではないもの、つまり用意された価値観に基づいて評価されない活動や評価しない人、評価されないでよい場所と言えるかも知れません。
 残念ながら公教育はそういう場所になり得ませんが、公教育のもつ価値観を疑ってみることはできるでしょう。サドベリー教育は、そのヒントを与えてくれているのかも知れません。

【蓑田さんの投稿】 
「サドベリー教育」って、世間的にはちょっと誤解されているんじゃないかと思います。まあ、これは自分個人の感覚なので、他の人の意見とは違うかもしれないけれど、サドベリーはいわゆる教育とは一線を画すものだと思っています。
 なぜかって?
 世間一般で思われている教育って、「子どもの力を伸ばす」とか、「よりよくしてあげる」とか、そういう向上させるイメージがあるじゃないですか。でも、サドベリーは違うんですね。必ずしも「向上することがいい」みたいなことではないんです。サドベリーに行ったから自立するとか、人間がしっかりしてくるとか、そういうことでもない。
 前にも書いたけど、サドベリーに在籍してた子たちは、自分のことをよく知っていて、自分のやりたい方向へ進んでいく傾向があります。それは確かです。でも、その方向は、必ずしも世間一般の大人が望んでいるようなポジティブな方向だとは限りません。極端な話、自分が怠け者でいいやと思ったら、怠け者になる。それも含めて自分らしい道を歩んでいくのがサドベリーの子たちです。
 そもそも、大人はなぜ子どもに、伸びることや向上することを望むのでしょうか。向上心を持つ方がいいなんて、誰が決めたのでしょうか。よりよい自分、よりよい暮らし、よりよい明日を求めて来た結果が、これだけの文明の発展をもたらしてきたけれど、環境破壊も招いたし、ストレスフルな社会だし、格差も広がってみじめな思いをする人も増えたような気がします。

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