みんなの「今」を幸せにする学校が訴える学校の未来像

『みんなの「今」を幸せにする学校』この題名を見た瞬間、ハッとしました。私が常日頃から思っていることが、まさにタイトルの著書。しかもそれを著したのは政令指定都市の教育長ではないか!これは読むしかない。Amazonの予約販売に登録し、届いた次の日に一気に読了、思いっきり共感しました。

 遠藤教育長がリーダーシップを発揮して進める熊本市の教育改革が、一躍、有名になったのは、コロナ感染症拡大により、全国一斉休校となった一昨年度のことです。全国に先駆けて、タブレットによるリモート授業を実現したことで注目を集めました。

遠藤洋路教育長

上の図は著書P40に示された熊本市教育委員会が取り組む学校改革です。報道を視聴していると、手当たり次第に改革を進めていて、熊本市は一体どこへ向かっているのかとさえ感じられますが、この著書を読むと教育長の改革思想の底流にあるのが「子どもの今を幸せにする」という信念に貫かれていることに気づかされます。

 結論から申し上げて、遠藤教育長が教育行政のトップとして描いている学校の未来像は、学校を「子供包括支援センター」にビルドアップすることです。これだけ聞くと、今でさえ、学校に何でもかんでも押し付けて、教員の負担ばかり増えているのに、これ以上さらに学校の業務を増やすのか、と言いたくなるところですが、遠藤教育長が言っているのは、増える仕事に必要十分なだけの人と予算をつけて、学校の仕事は増やしつつも、教職員一人ひとりの仕事は減らすという持続可能な提案なのです。
 先日、熊本学習支援センターを訪問し仙波達哉センター長のお話を伺いました。学習支援センターは、そもそも私立高校の先生方有志が不登校の子供達の学習を支援することを目的に設立されたボランティア団体です。7年間の活動を通して、支援内容は学習支援にとどまらず、復興支援、子ども食堂、児童相談所との連携、ヤングケアラーの支援、外国籍の子供支援、さらには独居老人の支援など、実に幅広くなってきたというのです。「そろそろ学習支援センターという名前も変えなきゃならんなぁ」と。そこで同行していた県議が思わず口にしたのが「センター長、これはもう子ども包括支援センターですね」という言葉でした。なんという時の符号!  
 困難な状況に追い込まれている子供ほど、教育分野だけを支援すればいいということでは済まなくなってきます。「教育と福祉」「文科省と厚労省」この両者が有機的に連動しなければ十分な支援はできません。遠藤教育長もこのことを危惧し、現状でも、中途半端に教育と福祉の両面を担わざるを得ない状況になっている学校の役割を、いっそのこと根本からつくり直し、「包括支援」する前線基地にしてしまおうと、世に問うているのだと思います。

 さて、ここからは各論として、「多様な学び豊かな社会の実現」を目指す立場から見て、特に共感した内容を2点だけに絞って取り上げたいと思います。

 一つ目は、子どもの「今を幸せ」にする学校にシフトしましょうという提案です。
 遠藤教育長は、学校の役割は、子どもの「将来の幸せ」と「今の幸せ」を保障する場であるべきだと訴えます。

 現在の学校や教育委員会は、学校は教育(将来の幸せを獲得させる機能)だけをする場所だという前提で成り立っています。その結果「将来」の幸せを重視しすぎており、率直に言って「今」の幸せに関わる問題が苦手です。そこに専門性のある職員もほとんどいません。これは別に、そこで働いている人たちが悪いわけではなく、法律や制度がそうなっている結果です。不登校、いじめ、体罰、学校の窮屈さといった問題の根底には、子供の「今」の幸せに目を向けてこなかったこと、そこに問題が起きたときの対応がうまくできていないことがあります。P43

 これを読んで私は、校則をゼロにした中学校長:西郷孝彦氏が「夢みる小学校」で語った言葉を思い出しました。西郷氏曰く「将来のために今を我慢し続けていると、一生我慢しながら生きなければならなくなる」
 そうなんです。今の学校は「将来のため」この一点張りで、子供の不満を押し切ろうとして、子供の今を切り捨てています。そうして我慢して育っても、将来幸せになれる保証はどこにもありません。むしろ、多くの自由学校で自分が学びたいと思ったことに、時間が経つのも忘れるぐらい腹一杯没頭した子どもは、大人になっても、そのまま、今の幸せを楽しんでいる人をよく見かけます。結局、幸せってその人が何を幸せと感じるかという主観に基づくものだと思うので、将来の幸せばかりを植え込まれた人は、いつまでたっても、将来の幸せのためにあくせくし続ける人生に陥りませんか?
 だから『みんなの「今」を幸せにする学校』というのは大正解だと思います。

 二つ目は、子供を学校づくりの「当事者」にすることによって、学校を「民主主義の担い手」を育てる場にしようというメッセージです。
 この根拠として2章冒頭に1947年文部省発行の「あたらしい憲法のはなし」という中学校の教科書の一節を引き合いに出し、自分で自分の国のことをやってゆくのが民主主義、つまり、『民主主義の本質は自己決定』だと訴えます。

いまのうちに、よく勉強して、國を治めることや、憲法のことなどを、よく知っておいてください。もうすぐみなさんも、おにいいさんやおねえさんといっしょに、國のことを、じぶんできめてゆくことができるのです。みなさんの考えとはたらきで國が治まっていくのです。みんながなかよく、じぶんで、じぶんの國のことをやってゆくくらい、たのしいことはありません。これが民主主義というものです。P50

 熊本市がICT導入とともに、全国的に注目されている取り組みのひとつ「校則見直しプロジェクト」も、実は、この文部省の民主主義教育の考え方を、現代の学校教育に息づかせようとする取り組みなのです。以下、遠藤教育長の校則見直しプロジェクトに賭ける思いの深さが伝わる部分を紹介します。

「学校が社会のルールを自らつくるという民主主義の基本を実現する場であるならば、学校のルールである校則づくりに子供たちが参画することは、極めて当然のことです」P52

 さらに、校則見直しに取り組むような時間がないという学校関係者からの疑問に対しては次のように応じている。

「できるだけ教育課程の中でおこなうべきだと考えている。(なぜなら)民主主義の学習は、学校が教育課程として教えるべき最重要事項の一つだからです。(中略)肝心なのは、各学校で「余計なこと」ではなく、学校で教えるべき「最も重要なこと」として、民主主義の担い手の育成を位置づけるということです」P69

 民主主義の精神は、教えられて理解するだけでは、いざという時に、もろく崩れ落ちるものです。民主的な家庭に産まれ、本物の民主主義コミュニティーの中に身を置き、民主主義的な過ごし方を体験する中で、じっくりと醸成されていくものだと思います。
 日本は戦後、民主主義を手に入れました。ただし自ら手に入れた訳ではなく、アメリカの施飲料政策の最重要施策の一つとして民主主義がもたらされた訳です。民主主義とはなにかを教える必要があったのでしょう。残念ながら学校では知識として民主主義を教えても、子供たちが真に学校づくりの当事者として生活を送るような仕組みをつくらなかったために、学校は真の意味で民主主義の息づく場所にならなかったのだと私は考えます。
 このように見たときに校則見直しプロジェクトは、単に人権の視点から時代遅れで非合理的な校則をなくすというミッションにとどまらず、形の上では民主主義国家を名乗る日本社会に民主主義の思想を浸透させるというより深い意義を含んでいるというメッセージを受け取ることができました。
 以上長々と書き連ねましたが、学校教育改革に関心を持つすべての人に読んでいただきたい書籍です。

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